金沢地方裁判所 昭和23年(レ)5号 判決
控訴代理人は、原判決を取消す、被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、第二審共被控訴人の負担とするとの判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
双方の事実上の主張は、
被控訴人の方で、(一)昭和二十一年十二月十九日小松区裁判所で、被控訴人と控訴人との間に別紙目録<省略>記載家屋について控訴人は被控訴人に対し昭和二十二年十月三十一日限り右家屋を明渡すとの調停が成立したけれども、右調停調書には誤記があつて強制執行が出來なかつたので、右調停における合意に基く明渡の請求を爲すため本訴に及んだのである。(二)尚、控訴人は現在法萃坊に移轉先をととのえ、何時でも本件家屋を明渡しうる状態にあるから、この点でも被控訴人の解約申入には借家法所定の正当事由がある、(三)控訴人主張の抗弁事実はこれを否認する。仮りに、その主張の如き修繕が爲されたとしても、建物保存のための必要費は凡て借家人たる控訴人において負担することとされていたものである。又被控訴人が本件家屋の所有者となつてから支拂われたと控訴人において主張する震災による便所修繕費金四百円は少額でもあるから爭わず、即時これが支拂を爲すからこの部分についての留置権の消滅を請求する、と述べ、控訴人の方で、(一)本件調停には控訴人、被控訴人間に明渡の合意がなかつたものである。仮りにその合意があつたとしても被控訴人において控訴人に対し移轉先を提供することが停止條件とされていたのであつて、本件について右條件は成就していない。(二)昭和二十三年六月の震災による便所修理費金四百円以外の費用は孰れも被控訴人の前家主当時支拂われたものであるが、建物保存等の必要費が借家人の負担とするとの定めは借家人に不利な特約であつて借家法上その効力がない。と述べた外原判決事実摘示(二)(原判決第四枚目裏十一行目より第五枚目表八行目迄)を除き、その他は原判決と同じいからこれをここに引用する。
<立証省略>
三、理 由
一、昭和二十一年十二月十九日小松区裁判所で現家主たる被控訴人と借家人なる控訴人の間に別紙目録記載家屋について明渡の調停が行われたことは当事者間に爭のないところであるが、当時果してその調停において当事者間に明渡の合意が成立したかどうかを考えるに、眞正に成立したと認められる甲第一号証、原審証人酒井長平の証言、当時における控訴本人及び被控訴本人尋問並に原審檢証の各結果を綜合してみると、右十二月十九日の期日において調停委員会の席上調停主任判事より家主が借家人に家屋を明渡して貰うには行先を見付けねばならぬ、それにはいくらかの猶予期間を見ておかねばならぬ等と説かれたところ被控訴人がこれに対して自分の方でもその世話をすることとし、控訴人もこれを了承して翌二十二年十月三十一日を明渡期限とし、当時控訴人が住んでいた本件家屋について明渡の合意が成立したことを認めるに充分であつて、右認定に反する原審並に当審における証人杉本清一、能田吉造、控訴本人、当審証人林政雄の各供述は甲第一号証に対比し措信するに足らない。
二、控訴人は、右明渡については被控訴人の方で控訴人のため行先を提供することが條件となつていた旨主張するけれども、移轉先の提供が、右明渡の停止條件とされていたことを認めるに足る資料はない。尤も、原審並に当審証人能田吉造、当審証人杉本清一、同林政雄、当審における控訴本人の各供述中一部右に副うものがあるけれども、前段認定に対比するとこれは本件調停調書第二項にあるとおり控訴人が本件の明渡後居住すべき住宅の提供について、被控訴人において「極力盡力すべき事」で、移轉先について双方当事者の誠意にまつべきことを期待し、これについては法律上の拘束を生ぜしめない趣旨のものであり、ことに当時のように住宅の拂底していたときには、この部分について迄法律上の拘束力を持たせようとするなら、提供すべき住宅について一定の標準を定め、後日新な紛爭のおきないよう、家屋の廣さ、位置、家賃等万端について協定すべきこと殆んど当然としなければならぬ筈である然るにこの点について右調停委員会において協定されたと認むるに足るものがないのみならず、かえつて当審における被控訴本人尋問の結果により明かな如く、当事者が互に協力する意味で被控訴人は控訴人のため二、三軒の借家又は賣家を紹介したけれども、控訴人の方でこれをことわつていたような次第である。從つて控訴人の右條件づきであるとの主張は採用し得ない。
三、次に控訴人の留置権ありとの抗弁について考察する。先づ、控訴人において被控訴人が本件家屋を所有する以前に支拂つたと主張する費用について、原審並に当審証人杉本清一、同能田吉造、原審証人山田清次郎、当審証人林政雄の各証言、原審における控訴本人尋問の結果によれば、控訴人は被控訴人の前主当時から本件家屋を賃借しており、その間に右家屋の保存上必要な修繕費、改良行爲と認められるコンクリート塗りや、天井張りに出された費用等を支出し、その他控訴人が自己の便益に供するため附加した造作のあることはこれを認めることが出來る。而して右造作については暫く措き、賃借人が賃借家屋につき必要費又は有益費を支出したときは其の当時における賃貸人でなくとも現に明渡を請求する者に対しても該家屋を返還するに際し、右費用の償還を請求し留置権を主張しうるのであるが、本件の様に家主から明渡を求めて調停の爲される場合には明渡を求める家主側の事情と共に之に應じ難い借家人の諸般の事情と彼此対照考慮し交渉を重ね互に讓歩して具体的の権利義務を確立するものであつて控訴人が被控訴人に対し本件家屋を昭和二十二年三月三十一日限り明渡す旨承諾したこと前記認定の通りであり、右の如く借家人が家主に対し明渡の請求に應ずるということは特段の定めがない限り、單に從前の貸借関係を終了させる合意であるのみならず、調停の当時有する明渡を拒むに足るべき一切の権利はこれを行使しないこととしたと解するのが相当であるから、控訴人が其の主張の様な有益費必要費を支出したとしてもこれについて留置権を主張し、その部分の弁済ある迄本件家屋の明渡を拒むが如きは許されないと言うべく、又控訴人主張の右費用中一部には造作代金もこれを含むこと右認定の通りであるが、この部分については、借家人は家主に対して造作買取請求権を有していても、造作代金はその占有する物について生じた債権でないからこれについて留置権を有する筈がない。次に控訴人において、被控訴人が本件家屋を所有してから後に支出したと主張する昭和二十三年六月の震災による便所修繕費金四百円について考察すると被控訴人はこれを爭わず即時その支拂を爲すとて現実に之を提供したところ控訴人は其の受領を拒絶したことは当裁判所に顕著であつて留置権を行使するには債務に付履行遅滞に在ることを要し之に反し債権者が受領遅滞に在る場合は留置権を行使し得ないものであるのみならず、控訴人は前記認定の如く昭和二十二年十月三十一日以降右家屋を占有すべき正当の権限がないのであつて、その後に支拂われた右金四百円について償還請求権を有するとしても、右の如く明渡の合意を爲し乍らその期限後もこれを占有するにおいては、控訴人において占有すべき権利のないことを知つているか、少くとも知らないことについて過失があつたというべく、從つて右占有は不法行爲に基くものであるからその間に本件便所修理代として費された右金四百円については民法第二百九十五條第二項によりその弁済ある迄右家屋の明渡を拒むが如きは許されないところと言わねばならない。然らば、控訴人がその主張にかかる費用の支拂ある迄本件家屋を留置するとの主張は、具体的にその費用の確定を爲す迄もなく失当と言わねばならない。
四、以上の理由により、控訴人は被控訴人に対し昭和二十二年十月三十一日限り本件家屋を明渡すべきものであるが、原審檢証の結果によれば、昭和二十一年十二月十九日小松区裁判所で作成された調停成立調書には目的家屋に関する誤記があり、右調書を債務名義とする明渡の強制執行は追行出來ない事情にあるので、被控訴人は控訴人に対し本訴を提起して本件家屋の明渡を求める利益があり控訴人に対し右家屋の明渡を命じた原判決は結局正当であるから民事訴訟法第三百八十四條により本件控訴を棄却することとし、訴訟費用については同法第八十九條第九十五條に則り主文のように判決するのである。
(裁判官 北野孝一 米光哲 向井哲次郎)